学生時代、授業をサボれる人たちが羨ましかった

 

 

今週のお題「サボりたいこと」

 

 

学校の先生も、教科書も、両親も、子供に対して、いい子であれ、人に迷惑をかけるな、間違ったことをするなと教える。だけどその子が大人になった途端、一度くらい本気で喧嘩したほうが人と人は深く分かり合えるとか、人に迷惑をかけてきたからこそ伝えられる何かがあるだなんて言い始める。正しいだけではつまらないなんて、言い始める。

 ―『何様』(朝井リョウ

 

 

私は典型的な「親の期待に応える子」だったなあとつくづく思います、それは今となっても。

 

よくブログやSNSで「昔、不登校の時期がありました」「学校が嫌で授業をよくすっぽかしてました」と語る方々がいらっしゃって、それは各々の理由や都合故なんだと認識はしています。深刻ないじめがあったかもしれないし、逆に、そういった深刻な理由がなくて「なんとなく」学校に行けなかった人たちもいると思う。どちらでもいいんです、けど、でもなんか、そういうお話を聞くと心の中で「あ、いいな」って思ってしまう自分がいる。私だけかなあ?こんな私をどうか皆さん嫌いにならないでね、まあ、なられても仕様がないか。

 

なぜ羨ましく思えるかって、学生時代の私(高校生までの私)、そういう風にサボることができない人間だったから。ビビりだったんです、ある意味一番、弱虫でチキンで、従うことが一番波風を立てないと知っていたんです、道を外す勇気がなかったんです、だから、サボることができなかった。考えられなかった、授業をすっぽかすとか、学校行くふりをしてぷらぷらするとか。親にバレたらどうするの?と、本気で思っていた。心配させるし、騒ぎになるし。とかって思える私は多分、ものすごく恵まれた環境で育ってきたと言えるのかなあ、ある意味で。でも大人になった今だから思うけれど、道に従うことだけが正しい訳じゃないし、自分の感情を押し殺してまで、優等生でいるのがいい訳じゃない。優等生でいることが求められる日本のクラス社会で、私は、あまりにも生真面目で純粋だったのかもしれない。もっと利己的に、もっと開放的に、生きたってよかったのかもしれない。

 

どんな映画だって漫画だって小説だって、主人公になるのは、道を覚えられなくてみんなに探されるような子だ。みんなが散々探したあと、けろりとした顔で「ちょうちょを追いかけてたの」と戻ってくるような子だ。

 ―『スペードの3』(朝井リョウ

 

あの頃道を上手に外せなかった分、私は今、自分に正直に生きようと決めています。昔は完ぺき主義なところもあって、でも完ぺき主義って己にとっても周りにとっても、損なことの方が多いのだと気が付きました。人間なんて不完全が当たり前だし、少し迷惑かけるくらいでちょうどいいんだよって、別に誰かにそう言われたわけではないけれど、そういうメンタルで毎日を過ごすようにしている。誰にも迷惑をかけないなんて、人生を生きている限り無理、人がうじゃうじゃいるこの世界で息をしている限り無理、だから、誰かに助けてもらうのであれば、自分もしかるべきときに手助けをすればいい。なので私、サボりたいことなんて今はないです、でも絶賛、コロナ患いまして自宅療養中です。サボりではなく正統派休みなので、骨までしっかり休めるつもり、コロナにかかった自分を許せるようになった私のことが、私は少しうれしかった。

 

 

 

 

高速バスの詩

 

 

胸に差し迫る感情がある。それを言語化できずに持て余して、端末とただ触れ合うだけで時間は消えていく。脳みそは溶け切っている、高速バスに乗るだけで胸がいっぱいになるような安直さ。恋愛や酒といった一時的で強烈なインパクトを与えてくれるものに、簡単に飲まれ、そのくせ、消費する時間とお金に対する線引きはものすごく厳しい。得られるものなんて、自分から求めに行くものなんて、いつだって刹那的で後から何も残らないのに。懲りないバカだ。ドキドキするものが好き。男女の友情は成立しない派、そんなのとっくにわかっているくせに、男の子と飲みに行くのをやめない。だって楽しいから。コスパよく自分になれるほうがいいのだから。その楽しいばかりを優先するから、孤独を味わう。孤独を突き詰めろ、という言葉が、岡本太郎の名言にあったような気がした。

 

 

I am 同族嫌悪最上級人間

 



嫌われたくない。余計な感情に振り回されたくない。男といる方が楽だからさあ、とかいう女の子が嫌われることくらい知っている。敵を作りたくない。平穏にしていたい。ただ気楽な人と過ごしていたらその割合が男の子が多くなっただけで、それは決して他人にひけらかして自慢してドヤ顔を放ちたいものではなく、むしろコンプレックスで、指摘されると無性に嫌で、でもストレスを避けて通るとおのずとたどり着く場所だから余計に苦しい。

 

多分究極の同族嫌悪です、私。女の子っていうラベルにまとめられた瞬間、苦しくなる。かわいくいなきゃいけない、可愛さのレベルで適切にグルーピングされていなきゃいけない、そのノリが合わないといけない、グループやタイプによって求められる女の子像は決まっていて、あてはめられると自分がどんどんそこに合わせていかなきゃいけない感じ。

 

それなら一人が良いよ、と思う。誰にもカテゴライズされたくない。偏見は正直人間である以上避けられないわけだから、別に他人にどう思われようが気にしないけれど。でもせめて自分だけは、自分のことを守ってあげたい。一人でいる変なやつとか、同性の友達いないやばいやつとか、酔ったら暴れるおかしいやつとか思われても、それが自分の思う過ごしやすい自分であるのなら、そこだけは妥協せずに生きていたいよ。なりたくない自分になってとやかく言われるよりも、なりたい自分になってとやかく言われた方が一億倍もマシだと思う。それに伴って、傷つく幅も広がるのかもしれないけれど。でも、ありのままの自分として過ごすことが唯一、私が私を尊重し、愛し、いたわり、そして大切にするということだと思うんだ。